海若の宿情報

海若の宿 名前の由来

「海に若い」と書いて「わたつみ」と読む「海若の宿」の名称は、古代文学研究の第一人者で文学博士の中西進先生(京都市立芸術大学長・奈良県立万葉文化館長)により命名されました。
万葉の時代、淡路島は塩や海の幸などの食材を天皇家に献上する土地として「御食つ国(みけつくに)」と呼ばれ、日本書紀や万葉集の歌には、その献上品のひとつである塩の精製所・塩田がこの野島付近にあったと残されています。
その野島の海人の存在を立証する貴重な遺跡が、旅館建設中の工事現場から発見されたのです。
発掘調査は工事をストップして行われ、この遺跡は弥生時代末および古墳時代の住居跡であるとの見解が北淡町教育委員会より発表されました。(2004年8月)
この遺跡は「畑田(はただ)遺跡」と名付けられ、「野島」には、柿本人麻呂が九州に赴くときに一夜を過ごした場所ではないかと思わせる歌が残っています。

また、野島ヶ崎、野島の港、野島川などを見渡せることから「野島の海人」の集落拠点、あるいは淡路島にある大きな柱跡の太さから、豪族の館跡ではないかといわれています。

玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に舟近づきぬ
淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす

万葉集には 「海若は 霊しきものか 淡路島……」という言葉で始まる長歌もあります。
「若」という文字は万葉仮名で「神さま」、現代文字の「海神」と同じ意味を持ち、「わたつみ」と発音していたそうです。
このように、淡路島・野島が万葉集に縁が深いことから、「海若の宿」と命名されました。


中西 進 先生
文学博士
文化功労者
奈良県立万葉文化館名誉館長
高志の国文学館館長
文化勲章受賞